実際にこんな事を言われたことがあります。
「あなたがやっているアニマルセラピーってアヤシクない? 生きてる動物ならまだ、“ごはん~” とか “遊んでー!”というのはあると思うから、 動物と話せるっていうのもまあ分からなくもない。でも、そんなものは飼い主だって十分わかってると思うから、話して何になるの? それからさ、死んじゃった動物とも話すとかって言いだしたら、それはやっぱりもうオカルトだよ。そんなあやしげな物には手を出さない方が良いと思う」
アニマルコミュニケーションを練習したり、がんばろうと思っている時に、ふと周りの人がこんな言葉を運んできてくれることがあります。まあ普通に一理ある意見だろうなと思います。
日常がもはやアニマルコミュニケーションどっぷりになっていると、当たり前すぎて見えなくなっている視点。
色々と説明をしようと、様々な反論を試みた時もあるけれど… 何かを「ある」「無い」という溝は、まあ埋まるものではありませんので、何かを論破しようとする試みはあまりお勧めしません~。
様々な先生から学びつつ10年以上実践してきた中で、今私が一番しっくりきているのは。
人だろうと動物だろうと、この地球で“個を体験”するにあたって、“命” という ”ひとりひとつのちから” のかたちになって来る。
その命が、“今現時点で” どんな服(肉体)を着ているのか。その、外身だけの違いなんじゃないか、という考え。
たとえて言えば、どんな乗り物に乗っているか、みたいなこと。
近くのスーパーに行くのが目的ならブルドーザーは選ばないだろうし、畑仕事にはやっぱり軽トラよね!
どんな車が最適なのかは、何がしたいのかによって変わります。良いも悪いも比べようがなく、優劣もつけようもない。どっちがスゴイか上かといった物差しでは測れません。
車ってクラクションを鳴らしたり、ランプをチカチカさせて互いに合図を送り合いますね。でもその信号って、車自体が勝手に出しているのではないですよね? 中に乗っているひとが出している指令ですよね? イメージとしては、中のひとが“命そのもの”。色や形、性能も多種多様な車自体が“肉体”。
亡くなった動物と話す、というのは
「車を運転するという経験をした後、車から降りた後のひと直に話をする」
ということ。
そう考えたら、“中のひと”と話せるというのはごく普通のことではないでしょうか?
まあ、この目では、その“中のひと”が見えづらい、という難点はありますが… 自分が車から降りたとたん、“いないひと”扱いされたらそれって悲しくないですか?
しかもその理由が、「それまで乗っていた車のようには見えない」というだけで…
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この記事は 2020/4/3 の無料メールマガジン に掲載されたものに加筆修正したものです。
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